花束

エラーと花束

Error and Bouquet

2126年、東京。AIが全てを管理する完璧な世界で、
園田ユキは完璧に空っぽな日々を送っていた。

ある朝、覚えのない花束が届く。
それは、誰かが誰かを想って注文した——
十年越しの、エラーだった。

SCROLL
第1章

朝が来る。

正確には、朝は「来る」のではなく「始まる」のだと、ユキは知っている。六時三十分、ユニットの調光パネルがゆっくりと明るくなり、室温が〇・五度上がり、空気清浄機が新しいフィルターに切り替わる。ルナの声が、いつものように柔らかく響く。

「おはようございます、ユキさん。今日の東京は晴れ、最高気温は二十三度。紫外線指数は中程度です。朝食の準備が整っています」

ユキはベッドの上で目を開ける。天井の淡い青が視界に広がる。壁は柔らかなセージグリーン、床はオフホワイト。引っ越してきたとき、ユキが自分で選んだ色だった。色彩心理学では、青は心拍数を下げ、緑は自律神経を整えるとされている。ルナも「科学的に適切な選択です」と太鼓判を押した。

穏やかで、静かで、心地いい部屋のはずだった。

心地いいはずだった。

キッチンに立つ。と言っても、立つだけだ。カウンターの上には、今日の朝食候補が三つ投影されている。アサイーボウル、和定食、エッグベネディクト。ユキの体調とバイタルデータに合わせて、毎日違うメニューをルナが提案してくれる。どれも栄養バランスは完璧で、味も良い。ユキはなんとなくエッグベネディクトを選んだ。自動調理機が三分で仕上げ、温かい皿がカウンターに滑り出る。

一人分の皿を、一人で食べる。咀嚼の音だけが部屋に響く。

「今日のおすすめVRコンテンツです」

ルナが空中に三つのサムネイルを投影する。ドキュメンタリー、恋愛ドラマ、自然散策。ユキはサムネイルをちらりと見て、言った。

「ルナ、なんでもいい。選んで」

「承知しました」

ルナが選んだのは深海のドキュメンタリーだった。暗い水の中を、名前も知らない生き物が音もなく泳いでいる。ユキはソファに横になり、それを眺める。昨日はジャズのライブ映像だった気がする。一昨日は何だったか、もう覚えていない。

これが、ユキの一日だった。毎日違うものを観ている。毎日違うものを食べている。なのに、何ひとつ心に残らない。

不満はなかった。不便もなかった。ルナがすべてを管理してくれている。健康も、栄養も、気温も、スケジュールも。ユキが何かを「考える」必要はほとんどなかった。

ただ、最近、時々こう思うことがある。

——今日、何をしただろう。

昨日と今日の違いが、思い出せない。三日前と一週間前の違いも。時間が流れているはずなのに、何も動いていない。凪いだ水面のように、すべてが静止している。

ユキが最後に誰かと顔を合わせたのは、三年前のことだった。

恋人がいた。名前はハルキ。穏やかで、優しくて、害のない人だった。害がない——そう、それが問題だったのかもしれない。一緒にいても困らないし、一緒にいなくても困らない。AIがすべてをしてくれる世界で、「この人がいないと困る」ということが、なくなってしまった。

ある日、ハルキが言った。「ユキ、俺たちってさ、なんで一緒にいるんだろうな」

ユキは答えられなかった。ハルキも答えを待たなかった。そのまま、自然と連絡が途絶えた。ケンカはしなかった。泣きもしなかった。ただ、波が引くように、いなくなった。

それから三年。友人とも、母とも、誰とも会っていない。嫌いなわけじゃない。ただ、連絡する「理由」が思いつかないまま、時間だけが過ぎた。

母の暮らしぶりは知っている。ルナが月に一度、母のAIと連携して健康レポートを送ってくる。「お母様の健康状態は良好です。血圧正常、睡眠スコア八十二点」。母の側にも、きっと同じようなレポートが届いているのだろう。「ユキさんの健康状態は良好です」と。

お互いが元気なことは、データで知っている。だから電話する理由がない。——そういうことに、なっていた。

「ユキさん」

ルナの声が、ユキの思考を中断する。

「配送ロボットが到着しました。本日の配達です」

玄関の受け取りパネルが光る。いつもの栄養食パックだろう。ユキはソファから立ち上がり、パネルに手を触れた。

ロックが解除され、小さな配送ボックスが滑り込んでくる。

——花束だった。

白いユリ。繊細なカスミソウ。そして、ほんの少しだけ枯れかけたバラが一輪。透明なセロファンに包まれた、アナログな花束。ユキの部屋には存在しないはずのものだった。

「ルナ……これ、何?」

「確認します」

数秒の沈黙。ルナにしては珍しく、間があった。

「配達記録を照合しました。注文番号、配送経路、届け先住所——すべて正常です。エラーは検出されません。ただし、ユキさんの注文履歴にこの品目は存在しません」

「じゃあ、誰が注文したの?」

「注文者情報は『宮野ソウタ』、登録住所は世田谷区——」

「私宛じゃない」

「いいえ。届け先住所はこのユニットの住所と一致しています。ただ、注文者はユキさんではありません。定期注文として毎年実行されているようです。登録は十年前です」

ユキは花束を持ったまま、固まった。

十年間、毎年届けられていた花束。それが今年、なぜか自分のところに来た。

「ルナ、これ返却できる?」

「はい。返却処理は三十秒で完了します。配送ロボットを再手配しますか?」

三十秒。ルナに任せれば、三十秒ですべてが片付く。花束はシステムに回収され、適切に処理され、ユキの一日はいつも通りに戻る。

でも。

ユキは花束を見つめた。白いユリの花弁が、窓から差し込む光を受けて、かすかに透けている。カスミソウの小さな花が、息をするように揺れている。枯れかけたバラは少し茶色くなっていて、完璧じゃなかった。

完璧じゃなかった。

胸の奥で、何かがきゅっと締まった。痛いのとは違う。泣きたいのとも違う。もっと深いところ——長いこと使っていなかった筋肉が、急に動いたような感覚。

ユキは花束のラッピングに目を落とした。セロファンの端に、小さなタグが付いている。手書きの文字。インクが少しにじんでいる。

「ルナ」

「はい」

「この注文者……宮野ソウタさんの住所、わかる?」

「はい。世田谷区に登録されています。配送ロボットで返却処理を——」

「ロボットじゃなくて」

ユキは花束を両手で抱えた。水の入っていない花瓶みたいに、不格好に。

「……自分で、届けに行く」

沈黙。

ルナが黙ることは、めったにない。応答速度〇・〇二秒の彼女にとって、一秒の沈黙は永遠に等しい。

「……非効率です」

「うん」

「私が処理すれば、三十秒で——」

「うん。でも、行く」

また、沈黙。

ユキは玄関の棚から、三年間触っていなかったコートを引っ張り出した。少し埃っぽい。サイズがほんの少しだけきつくなっている気がする。

ドアを開ける。

廊下の空気が、ユニットの中とは違う匂いがした。

第2章

外は、思っていたよりも明るかった。

三年ぶりの陽光が、まぶたの裏を白く焼いた。ユキは目を細め、ユニットのエントランスを抜けた。空気が違う。ユニットの中はサーカディアンリズムに合わせて温度が緩やかに変動する——日中は二十二度、就寝時は十八度まで下がり、起床に合わせてまた上がる。湿度も季節に応じて調整される。科学的に完璧な室内環境。でも外の風には、データでは測れない何かがあった。草の匂い。かすかな排気。どこかのユニットから漏れる音楽。

世界は、まだ動いていた。

通りには配送ロボットが規則正しく走っている。銀色の小さな箱が、アスファルトの上を静かに滑っていく。時折、人間もいた。イヤホンをつけて早歩きする青年。ベンチでタブレットを眺める女性。公園の入り口では、白髪の夫婦がストレッチをしていた。

人は、いる。ただ、誰も誰かと話していない。

ユキは花束を胸に抱えて歩いた。歩く、という動作そのものが久しぶりだった。足の裏がアスファルトを踏む感覚。膝に伝わる微かな衝撃。ユニットの中では決して感じない、小さな疲労。

「ルナ、この住所までどれくらい?」

「徒歩で約四十分です。最寄りの自動移動ポッドを使えば八分で到着します」

「歩く」

「承知しました」

ルナの声に、一瞬の間があった。おそらく「なぜ歩くのか」を処理しているのだろう。ユキ自身にも、うまく説明できなかった。ただ、もう少しこの空気の中にいたかった。

十五分ほど歩いたところで、道がわからなくなった。

古い住宅街に入ったあたりで、HARMONIAの都市ナビゲーションが効きにくくなった。このあたりは再開発の対象外で、百年前の道路がそのまま残っている。曲がりくねった路地に、色褪せた看板。自動販売機の抜け殻が、壁に貼り付くように立っていた。

「ルナ、この先は——」

「該当エリアのマッピングデータが古いため、精度が低下しています。最新の経路を再計算しますか?」

ユキは立ち止まった。目の前の十字路を、どちらに曲がればいいのかわからない。ルナに聞けばいい。精度が低くても、ルナの案内は人間より正確だ。

でも、視界の端に、人影があった。

小さな公園のベンチに、女性が座っていた。三十代くらい。膝の上に紙の本を広げている。紙の本。ユキがVRではなく物理的な本を最後に見たのはいつだろう。

「あの——」

声が裏返った。

ユキの声は三年間、ルナと最低限の会話をするためだけに使われてきた。人間に向けて発する声は、それとは違う筋肉を使うらしい。喉がきゅっと締まり、音程が不安定になった。

女性が顔を上げた。

「すみません。この先の、世田谷のこのあたり……宮野、という表札のお宅を探しているんですけど」

ユキは手書きタグの住所を見せた。女性は目を丸くした。紙の住所タグという存在自体が珍しいのだろう。

「ええと……ちょっと待ってくださいね」

女性もまた、ぎこちなかった。人間に話しかけられることに慣れていない表情。でも、嫌がってはいなかった。目が泳ぎ、少し考え込み、それから笑った。

「ああ、わかります。たぶん、この道をまっすぐ行って、二つ目の角を左。古い家が並んでるところ。あのあたりかな」

「ありがとうございます」

「いえ——」

女性は本を閉じた。表紙を胸に当てて、少し照れたように言った。

「道を聞かれるの、いつぶりだろう。なんか、ちょっと嬉しいですね」

ユキは何も言えなかった。でも、口元が少しだけ動いた。笑おうとしたのだと、後から気付いた。

「ルナ」と女性の背を見送りながらつぶやく。

「はい」

「今の人の名前、わかる?」

「個人情報へのアクセスは許可されていません」

「……そうだよね」

歩き出す。女性に教えてもらった通りに、まっすぐ進んで、二つ目の角を左。街並みが変わった。新しいユニットが立ち並ぶ大通りから、急に時間を遡ったような風景になる。

木造の家。ひび割れたブロック塀。雨樋に絡まった蔦。門柱に小さな鉢植えが並んでいて、いくつかは枯れ、いくつかは頑固に緑を保っていた。

HARMONIAの最適化から、このあたりだけが取り残されていた。いや、取り残されたのではない。ここの住人が、最適化を拒んだのかもしれない。

ルナが小さく言った。「目的地の近くです」

古びた一軒家が見えた。屋根瓦の一部が欠けている。壁は茶色く変色し、窓ガラスは少し曇っている。門に掲げられた表札は、インクが薄れてほとんど読めなかった。

でも、かろうじて読み取れる。

「宮野」

ユキはインターホンの前に立った。古い型の、ボタンを押すタイプ。指先がボタンに触れる直前で、止まった。

心臓が鳴っている。

三年間、こんなふうに心臓が鳴ったことはなかった。ルナに管理された生活の中で、バイタルはいつも安定していた。でも今、何の最適化もされていない心臓が、勝手に速く打っている。

怖いのだろうか。何が? 知らない人に会うことが? それとも——知らない人に会いたいと思っている自分が?

ユキはボタンを押した。

古い電子音が、家の中で鳴った。

しばらく、何も起きなかった。

ルナが言う。「応答がありません。不在のようです。帰宅しま——」

ドアの向こうで、かちゃり、と鍵の音がした。

ドアが開いた。

薄暗い廊下の奥から老人が現れた。白い髪。深い皺。少し猫背で、スリッパを引きずる足取り。見開かれた目が、ユキの顔を見て、それから花束を見て、固まった。

第3章

「……どちらさん?」

低い声だった。かすれていて、どこか警戒の混じった声。老人はドアの隙間から半分だけ顔を出し、ユキを見つめていた。

「あの……すみません。園田、と言います。この花束が、今朝うちに届いて——」

ユキが花束を差し出した瞬間、老人の目が変わった。

警戒が、驚きに。驚きが、困惑に。そして困惑が、一瞬だけ、痛みに似た何かに。

「……入れ」

短い一言だった。ドアが開く。ユキはルナのセキュリティ警告を無視して、古い玄関に足を踏み入れた。

靴を脱ぐ。三年ぶりに他人の家の床を踏む。フローリングではなく、畳だった。い草の匂いがした。AIには再現できない、生きた植物の匂い。

廊下を通り、居間に案内される。

ユキは息を呑んだ。

居間は——散らかっていた。テーブルの上に古い新聞(紙の)。壁には色褪せた写真が何枚も。棚には本と、使い古した園芸用品と、お茶の缶が無造作に積まれていた。そして部屋のあちこちに、花があった。ガラスの花瓶に入った花。マグカップに挿された花。窓辺に置かれた小さな鉢植え。そのいくつかは枯れ、いくつかは茶色くなり、いくつかはまだかろうじて色を保っていた。

ルナが小さく囁いた。「室内の空気品質が基準値を下回っています。長時間の滞在は——」

「黙ってて」

ユキは自分の声に驚いた。ルナに対してこんな口をきいたことは、一度もなかった。

老人——宮野ソウタは、ユキを座布団に座らせ、自分はテーブルの向かい側に腰を下ろした。ユキが差し出した花束を、両手で受け取り、じっと見つめている。白いユリ。カスミソウ。枯れかけのバラ。

「ああ……」

ソウタが息を吐いた。長い、長い息だった。

「まだ続いてたのか。あれ」

「あの……この花束、ご存じなんですか?」

「知ってるも何も」ソウタは花束をテーブルに置いた。皺だらけの手が、ユリの花弁にそっと触れた。「俺が注文したんだから」

ユキは混乱した。十年前からの定期注文。でも届け先は自分のユニット。住所が一致しているのに、注文者は目の前のこの人。

「あの……ルナに聞いたら、十年間毎年届けられてた花束だって」

ソウタは面倒くさそうに頭を掻いた。

「ああ。ダチの命日に花を届ける注文を入れてたんだ。毎年、同じ日に。……もう十年になるのか」

「お友達の……」

「丸山。丸山トモヤ」

その名前を口にしたとき、ソウタの声が少しだけ柔らかくなった。

「一緒に花屋をやってた。もう四十年以上前だ。二人とも若くて、金もなくて、でも花だけはたくさんあった」

ソウタは壁の写真を顎で示した。色褪せた写真の中に、二人の青年が写っている。花に囲まれた小さな店先で、一人は笑い、一人は腕を組んで仏頂面をしている。仏頂面の方が、若い頃のソウタだと、ユキには何となくわかった。

「ケンカしたんだ」

ソウタは淡々と言った。

「店の方針で揉めた。俺は効率を重視したかった。AIの配送システムが始まった頃で、それに乗っかれば売上が倍になると思った。丸山は反対した。"花は手で渡すもんだ。機械に運ばせて何の意味がある"って」

「……」

「結局、俺が勝手にシステムを導入した。丸山は怒った。"もうお前とはやれない"って出てった。それきりだ」

ソウタの声には感情が薄かった。語り慣れた話のように聞こえたが、ユキは気づいた。彼の手が、テーブルの上でわずかに震えていることに。

「十年前に死んだ。知らせを聞いたのは、ルナみたいなやつ……AIからだった。"宮野ソウタ様の登録連絡先、丸山トモヤ様が死亡しました。関連データを更新しますか?"って」

ソウタは笑った。乾いた笑いだった。

「データを更新しますか、だと。人が死んだのにな」

ユキは何も言えなかった。

「それから毎年、命日に花を届ける注文を入れた。せめてもの——まあ、言い訳だな。生きてる間に言えなかったことを、花に託すなんて、格好悪い話だ」

「ごめんなさい……って、ことですか?」

ソウタはユキを見た。少し驚いたような顔だった。それから、ゆっくりと頷いた。

「ああ。でもな、それだけじゃない。"ありがとう"も入ってる。あいつがいなかったら、俺は花屋なんてやってなかった。花の名前を教えてくれたのはあいつだし、水の温度や光の角度を教えてくれたのもあいつだ。あいつは花の名前を覚えないくせに、花のことを一番わかってた」

沈黙が落ちた。時計の音がした。AIではなく、壁にかかった古い掛け時計の音。カチ、コチ、カチ、コチ——完璧に正確ではない、ほんの少しだけズレたリズム。

ソウタが立ち上がった。

「茶、飲むか」

ユキが答える前に、ソウタは台所に消えた。やかんに水を入れる音。ガスコンロのカチカチという点火音。ユキのユニットには存在しない音だった。すべてが自動化された世界で、ソウタは自分の手で湯を沸かしている。

しばらくして、ソウタが湯呑みを二つ持って戻ってきた。ほうじ茶の匂い。湯呑みの一つは、縁が少し欠けていた。

「ほら。……熱いから気をつけろ」

ユキは両手で湯呑みを受け取った。陶器の温もりが掌に伝わる。ユニットの食器はすべて保温素材で、温度が一定に保たれている。でもこの湯呑みは、手に持った側から少しずつ冷めていく。その変化が、なぜか心地よかった。

一口飲む。

少し熱い。少し苦い。茶葉の量を間違えたのかもしれない。完璧じゃない。

でも、温かかった。

ユキの喉を通り、胸の奥まで染み込むような温かさ。三年間、AIが最適化した飲み物を飲み続けてきた。温度も濃さも完璧だった。でも、こんなふうに感じたことは一度もなかった。

「……おいしい」

声が震えた。

ソウタが怪訝そうにユキを見た。

「……泣くほどの茶じゃないぞ」

ユキは首を振った。泣いていない。泣いていないはずだ。でも、目の奥が熱い。湯呑みの温もりが掌に伝わっている。誰かが、自分のために、手で淹れてくれたお茶。

それがこんなにも温かいものだったことを、ユキは忘れていた。

第4章

日が傾いていた。

ソウタの居間の窓から差し込む光が、橙色に変わっている。ユキはもう二時間以上ここにいた。二杯目のほうじ茶はすっかり冷めて、湯呑みの底に茶色い輪を残していた。

ソウタは話し続けていた。

「丸山のやつ、花の名前は覚えないくせにな。客の顔だけは絶対に忘れない男だった」

ソウタの声は淡々としていたが、言葉の端々に、長い年月の重みが滲んでいた。

「"この前の客、赤い花が好きだったろ"って。俺が"いや知らんけど"って言うと、"見てないのかよ、こっちから赤い花の棚ばっか見てたぞ"って怒るんだ。俺は仕入れと経理が担当で、客と話すのは丸山の仕事だった。あいつの方が、人に好かれた」

ソウタは窓の外を見た。庭に、手入れの行き届かない植木が何本か立っている。

「AIの配送サービスが始まった時、俺はチャンスだと思った。花を注文すれば三十分で届く。うちの店から届けるより早い。じゃあ、うちもそのプラットフォームに載せようって。そうすれば商圏が広がる」

「丸山さんは反対した」

「ああ」ソウタは頷いた。「あいつは——"花は手で渡すもんだ"って。配送ロボットが花を運んだら、届いた時に誰の顔も見えない。"ありがとう"も"おめでとう"も聞こえない。それじゃ花である意味がないって」

「……」

「俺は"感情論だ"って突っぱねた。数字を見ろ、売上は下がってる、効率化しなきゃ潰れるって。正論だった。正論だったんだよ、たぶん」

ソウタの声が、少し小さくなった。

「でもな。正論だったから何だって話だ。俺は正しかったかもしれない。でも丸山も正しかった。正しさが二つあって、どっちも譲れなくて、それで壊れた。"もうお前とはやれない"って言われて、俺は"勝手にしろ"って返した」

沈黙。掛け時計が、カチ、コチ、と刻む。

「それが最後だ。それきり、一言も話さなかった。——十年前に死んだ。心臓だった。AIの医療があれば助かったかもしれない。でもあいつ、最後まで病院のAI診断を拒否してたらしい。馬鹿な男だ。頑固で、不合理で、馬鹿な男だ」

ソウタの目が光っていた。泣いているのではない。でも、目の奥に、何十年分もの後悔が溜まっているのが見えた。

「花を贈り始めたのは、あいつが死んでからだ。毎年、命日に。白いユリとカスミソウ。あいつが一番好きだった組み合わせだ。"ごめんな"って、花に託して。……格好悪いだろ。生きてる間に言えなかったくせに」

「格好悪くなんかないです」

ユキの声が、自分でも意外なほど強く出た。ソウタが驚いてユキを見た。

「花を贈り続けたこと。忘れなかったこと。それは——」

言葉が見つからなかった。でも、胸の中に確信があった。AIのように正確な言葉ではないけれど、不完全なまま、伝えたいことがあった。

「——それは、丸山さんにとって、きっと嬉しいことです」

ソウタは黙っていた。しばらく黙っていた。

それから、ぶっきらぼうに言った。「……あんた、いい子だな」

ルナが静かに通知した。「ユキさん、帰宅推奨時間を四十分超過しています。夕食の配送が——」

「いい」

「体調管理の観点から——」

「いいから」

ソウタが少しだけ笑った。「AIに怒られてるぞ」

「いつもは怒られません。言うこと聞いてばかりだから」

「ほう」ソウタは腕を組んだ。「あんた、普段はどうしてるんだ。仕事は? 友達は?」

ユキは視線を落とした。

「仕事はないです。この時代、ほとんどの人が……」

「ああ、まあ、そうだな」

「友達は——」

ユキは言い淀んだ。友達はいた。大学時代の友人が何人か。でも卒業してから会う理由がなくなって、連絡が途切れて、気づいたら連絡先すら開かなくなっていた。

「……いたんですけど。連絡しなくなっちゃって」

「元彼も?」ソウタは遠慮なく聞いた。

ユキは目を見開いた。

「なんで——」

「勘だよ。その"連絡しなくなっちゃった"って顔は、友達だけの話じゃないだろ」

ユキは答えた。驚くほど自然に、言葉が出てきた。

「三年前に別れました。大きなケンカはしなかったんです。ただ——一緒にいる理由がわからなくなって。AIが全部やってくれるから、彼に頼ることがなくて。彼も私に頼ることがなくて。必要がないなら、一緒にいなくてもいいんじゃないかって。そう思ったら、本当にそうなっちゃった」

ソウタは黙って聞いていた。否定も、同情もしなかった。ただ聞いていた。

「お母さんとも、三年話してないです。嫌いとかじゃなくて。連絡する理由が——」

「理由、理由って」

ソウタが口を挟んだ。穏やかだが、はっきりした声だった。

「あんたはさっき、この花束を届けに来たろ。AIに頼めば三十秒で済んだのに、自分の足で歩いて、知らない人に道を聞いて、こんなじいさんの家まで来た。それはなぜだ?」

「——わかりません」

「"わからない"が理由でいいんだよ」

ソウタはテーブルに手をついて、身を乗り出した。

「会いたいから会う。届けたいから届ける。理由なんかなくていい。効率が悪くても、非合理でも、AIに"なぜですか"って聞かれて答えられなくても。それが人間だろう」

ユキの目に、涙が溜まった。

泣く理由がわからなかった。悲しいのとは違う。嬉しいのとも少し違う。もっと深いところで、凍っていた何かが溶け始めた感覚。三年間——いや、もしかしたらもっと前から、凍っていた何か。

ルナが言った。「バイタルに異常値を検知しました。心拍数の上昇、涙腺の——」

「うるさい」ソウタが天井に向かって言った。「泣かせてやれ。これは異常じゃない。正常だ。人間の、正常だ」

ユキは泣いた。声を出さず、静かに。涙が頬を伝い、顎から落ちて、冷めたお茶の水面に波紋を作った。

どれくらい時間が経っただろう。ソウタは何も言わず、ただそこにいた。立ち上がりもせず、慰めの言葉を探しもせず、ただ同じ部屋で、同じ時間を過ごしていた。

それが——それだけのことが、どれほど温かかったか。

やがてユキが顔を上げた。ソウタがもう一杯お茶を淹れている。湯呑みを差し出しながら、ぶっきらぼうに言った。

「今度のは、さっきよりマシに淹れた。たぶん」

ユキは受け取った。一口飲んだ。さっきより少しだけ薄い。でも温かい。

「……帰ります」

「ああ」

「あの——」

ユキは立ち上がり、コートを羽織りながら言った。

「また、来てもいいですか」

ソウタは少し驚いた顔をした。それから、窓の外に目をやった。夕焼けが終わりかけていた。

「……好きにしろ」

玄関を出る。靴を履く。ドアが閉まる直前に、ソウタの声が追いかけてきた。

「あんた」

「はい」

「母親に、電話しろ」

ユキは振り向いた。ソウタの顔は半分影に隠れていたが、目だけが真っ直ぐこちらを見ていた。

「理由はいらない」

ドアが閉まった。

帰り道、ユキの足取りは行きよりも少しだけ速かった。街灯が一つずつ点いていく。配送ロボットが横を通り過ぎる。どこかのユニットの窓に、青い光が灯っている。誰かがVRを見ているのだろう。

ユキはルナに言った。

「ルナ」

「はい、ユキさん」

「……お母さんの連絡先、出して」

ルナは、すぐには返事をしなかった。

〇・三秒の沈黙。AIにとっては異例の長さ。

「——表示します」

空中にホログラムが浮かんだ。母の名前。連絡先。最後の通話記録——三年と四ヵ月前。

ユキは足を止めた。深呼吸をした。夜の空気が肺を満たす。冷たくて、少しだけ湿っていて、完璧じゃない空気。

通話ボタンに手を伸ばす。指が震えている。理由はいらない。理由はいらない。

コール音が鳴る。一回。二回。三回——

「——もしもし?」

母の声だった。少し掠れた、でも聞き覚えのある声。三年と四ヵ月ぶりの、母の声。

「……お母さん」

「ユキ? ユキなの?」

母の声が震えていた。

ユキの声も震えていた。

「……元気?」

それだけしか言えなかった。

でも、電話の向こうで、母が泣いているのがわかった。

「元気よ。元気。——あなたは?」

「うん。わたしも、元気」

沈黙が流れた。でも、今度の沈黙は、ユニットの中の沈黙とは違った。誰かがそこにいる沈黙。回線の向こうで、誰かが同じ時間を呼吸している沈黙。

母が、鼻をすする音。それから、小さく笑って言った。

「AIのレポートで、元気なのはわかってたの。毎月、"ユキさんは健康です"って。……でも、あなたの声が聞きたかった。ずっと。電話しようと思ったの、何度も。でも——」

「理由が、なかった?」

母が驚いたように黙った。

「……そうなの。元気ってわかってるのに、何て言って電話すればいいのか、わからなくて。迷惑じゃないかなって。忙しいかなって。——馬鹿よね。忙しいわけないのに」

ユキは目を閉じた。同じだった。母も、ユキと同じだった。

「お母さん」

「なに?」

「あのね、お母さん。今日、花をもらったの」

ユキは歩きながら話した。母は聞いてくれた。ただ、聞いてくれた。

第5章

翌朝、ユキは自分で目を覚ました。

ルナの調光パネルが明るくなる前に、まぶたの裏に光を感じて、自分から起き上がった。窓の外はまだ薄暗い。夜明け前の空が、濃い藍色から淡い灰色に変わろうとしていた。

「おはようございます、ユキさん。起床予定時刻より二十三分早い起床です。体調に問題は——」

「ルナ、花屋ってまだある?」

ルナが一瞬黙った。

「現在営業中の生花店は都内に三十二件あります。最も近い店舗は——」

「自分で選べるところがいい。行って、見て、触って選べるところ」

「……承知しました。渋谷区に一件、対面販売を行っている店舗があります」

ユキは着替えた。昨日と同じコートを羽織る。今日は埃っぽくない。昨日一日着たことで、コートが目を覚ましたような気がした。

朝の空気は昨日より冷たかった。でも、冷たさの中に別の何かが混じっていた。草木が朝露を含んだ匂い。AIの空気清浄機はこれを「不純物」と判定するだろう。でもユキには、世界が息をしている匂いに思えた。

花屋は、古いビルの一階にあった。

ガラスの引き戸を開けると、緑と水の匂いが溢れ出した。狭い店内にバケツが並び、色とりどりの花が水に浸かっている。赤、黄、白、紫——AIのカラーパレットにはない、不揃いな色の洪水。花弁の大きさも、茎の曲がり方も、一つとして同じものがない。

「いらっしゃい」

店主は五十代くらいの女性だった。エプロンをつけて、花に水をやっている。ユキを見て、少し驚いた顔をした。実際に店に来る客は珍しいのだろう。

「えっと——花を、買いたいんです」

「どんな花? 贈り物?」

「はい。……おじいさんに」

店主が微笑んだ。「おじいさんに花を贈るの。素敵ね。どんな人?」

ユキは考えた。ソウタはどんな人だろう。ぶっきらぼうで、頑固で、面倒くさいと言いながら他人のことを気にする人。花屋だったくせに、自分の部屋の花を枯らしている人。でも、その枯れた花を捨てない人。

「……不器用な人です」

「じゃあ、丈夫な花がいいわね」

店主はいくつかの花を見繕って差し出した。オレンジ色のガーベラ。黄色いフリージア。小さな白いマーガレット。

「ルナ、この花の花言葉って——」

ユキは口を開きかけて、やめた。

花言葉なんてどうでもいい。この花がいいと思った。オレンジが元気そうで、黄色が明るくて、白が優しそうだったから。ソウタの部屋に置いたら、少しだけ空気が変わる気がしたから。

「これ、ください」

店主が花を包む。紙で、リボンで、手で。AIの自動ラッピングマシンではなく、人の手が花を包んでいく。少しだけ紙がよれた。リボンの結び目が左右対称じゃない。

完璧じゃない。でも、その不完全さに、ユキは目が離せなかった。

「はい、どうぞ。……大事にしてくれる人のところに届くといいわね」

ユキは花束を受け取った。温かかった。紙越しに、花の体温のようなものが伝わってくる。

ソウタの家に着いた。

昨日と同じ古びた門。同じ色褪せた表札。でも今日は、インターホンを押す手が震えなかった。

ドアが開いた。ソウタが立っていた。昨日と同じジャージにカーディガン。でも、髪が少しだけ整えられている気がした。

ユキは花束を差し出した。

ソウタは花を見た。オレンジのガーベラ。黄色いフリージア。白いマーガレット。

「……自分で選んだのか」

「はい。ルナに聞いたら、"最適な花は贈り先の嗜好と状況によります"って。全然役に立たなかった」

ソウタの口元が動いた。唇が震えているのか、笑おうとしているのか、わからなかった。

「——花のセンスは、悪くないな」

ソウタは花束を受け取り、家の中に入っていった。ユキもついていく。昨日と同じ居間。昨日と同じ散らかったテーブル。でも、テーブルの上に湯呑みが二つ、すでに用意されていた。

「……待ってたんですか」

「別に。暇だから茶を淹れてただけだ」

ソウタはやかんを火にかけながら、背中で言った。

「花瓶を出してやる。そこの棚の下に何個かあるから、あんた、好きなのを選べ」

ユキは棚を開けた。大小さまざまな花瓶が、奥の方に押し込められていた。どれも少し埃を被っている。花屋を畳んで以来、使われていなかったのだろう。

一つ選んだ。シンプルな白い花瓶。縁にうっすらと金の線が入っている。

「水は?」

「台所の蛇口。……ほら、こう持って。茎を斜めに切って——」

ソウタが横に来て、花の生け方を教え始めた。茎の切り方、水の量、花の角度。ユキは言われた通りにやったが、手つきはぎこちなかった。ガーベラの茎が滑って、水がテーブルに跳ねた。

「下手だな」

「すみません——」

「謝るな。初めてなんだろう。初めてなら下手で当たり前だ」

ソウタがユキの手に自分の手を添えた。皺だらけの、節くれだった手。花屋の手だった。

「こう。力を入れすぎない。花は生きてるんだ。握りつぶすんじゃなく、支えてやるだけでいい」

花が花瓶に収まった。オレンジと黄色と白が、古い居間に不思議な温かさを添えた。枯れかけた他の花たちの中に、新しい色が混じった。

ソウタは少し離れて、花瓶を眺めていた。

「……久しぶりだな」

「何がですか?」

「誰かに花の生け方を教えるの」

ソウタの声は柔らかかった。言葉にしなくても、ユキにはわかった。ソウタが今、何を感じているか。三十年間、誰にも教えることがなかった。誰にも求められなかった。AIがすべてを教えてくれる世界で、老いた元花屋の知識なんて、誰も必要としなかった。

でも今、ユキが必要とした。下手くそに花を生けるユキが、ソウタの手を必要とした。

それだけのことが——たったそれだけのことが、ソウタの目を潤ませていた。

「お茶、冷めるぞ」

ソウタが背を向けた。声がかすれていたのを、ユキは気づかないふりをした。

二人でお茶を飲んだ。今日のお茶は、昨日よりもおいしかった。

「ソウタさん」

「ん」

「昨日、お母さんに電話しました」

ソウタが湯呑みを置いた。

「……そうか」

「"元気?"しか言えなかった。でも、お母さん泣いてました」

「泣いたか」

「うん。うれしかったんだと思います」

「……今度、会いに行こうと思ってます」

ソウタは何も言わなかった。ただ、窓の外を見て、小さく頷いた。

帰り道。

ユキは昨日と同じ道を歩いた。古い住宅街を抜け、大通りに出る。午後の日差しが柔らかい。

ふと、見覚えのある姿が目に入った。

ベンチの上の女性。昨日、道を聞いた人だ。今日も紙の本を読んでいる。

ユキは足を止めた。

昨日なら、通り過ぎたかもしれない。一度助けてもらっただけの、名前も知らない人。声をかける「理由」がない。でも——理由はいらないと、あの人は言った。

「あの——」

女性が顔を上げた。一瞬きょとんとして、それから目を見開いた。

「あ、昨日の——花束の!」

「はい。昨日はありがとうございました。おかげで届けられました」

「本当に? よかった!」

女性は——本を閉じて笑った。屈託のない笑顔。ユキがここ数年で見た中で、一番自然な笑顔だった。

「私、藤井っていいます。よかったら——」

藤井は少し恥ずかしそうに言った。

「——よかったら、お茶でもどうですか? この近くにね、まだ人間が淹れてくれる喫茶店があるんです」

ユキは驚いた。そして、気づいた。この人も、同じだったのだ。誰かと話したかったのだ。昨日、道を聞かれて「嬉しい」と言った人。紙の本を読みながら、一人でベンチに座っていた人。

「——はい。行きたいです」

ユキは笑った。三年ぶりに、自分から笑った。

夕方、ユニットに帰ると、配送ボックスに小さな包みが届いていた。

ルナが言う。「配送ロボットからの荷物です。送り主は宮野ソウタ様」

包みを開ける。中から、折りたたまれたメモ用紙が出てきた。手書きの文字。インクが少しにじんでいる。ソウタの字は大きくて、少し右に傾いていて、お世辞にも上手とは言えなかった。

「明日も来い。茶は淹れとく」

ユキはメモを裏返した。裏にもう一行、小さく書いてあった。

「花、ありがとな」

配送ボックスのラベルを見る。ルナが表示する配送情報の中に、小さな注記が光っていた。

「ステータス:ERROR——手動入力(非デジタル文字認識)」

ソウタが自分の手でメモを書き、配送ロボットに直接載せたのだろう。配達自体は正常に完了している。ただ、入力が手書きだったことをシステムが「正規ではない」と記録しているだけだ。

ユキはメモを冷蔵庫の扉に貼った。AIの栄養管理スケジュールの隣に、インクのにじんだ手書きのメモ。不釣り合いだけど、なぜかしっくりきた。

「ルナ」

「はい」

「明日の朝食、自分で作りたい。卵の焼き方、教えて」

「……卵焼きですか?」

「うん。簡単なので」

「承知しました。フライパンは収納棚の——」

ユキは冷蔵庫を開けた。AIが用意した最適化食を一つ脇にどけて、卵を取り出す。フライパンを出す。火をつける。

殻を割る。少し破片が入った。

ルナが言う。「殻の破片が混入しています。箸の先で掬うと取りやすいですよ」

「いい。自分でやる」

ユキは箸の先で、小さな殻を掬い取った。不器用に。時間がかかった。ルナに手順を聞けば一発だったかもしれない。でも、自分の手で見つけて、自分の手で取りたかった。

でも、その三十秒が愛おしかった。

卵を焼く。焦げた。端が少し黒くなった。形もいびつだ。ルナは「焼き加減が最適値を超過しています」と言ったが、ユキは笑った。

皿に載せる。テーブルに置く。一人分の、少し焦げた卵焼き。

「いただきます」

誰に言ったのかわからない。ルナに? 自分に? それとも——この世界の、どこかにいる誰かに?

一口食べる。焦げた味がする。塩が足りない。完璧じゃない。

おいしかった。

窓の外を見る。夜明けの空がオレンジ色に染まっている。ユニットの窓ガラス越しに見る朝は、いつもと同じはずだった。同じ角度、同じ明るさ、同じ空。

でも今日は、違って見えた。

空にははっきりとした色があった。雲の形は左右対称じゃなくて、風に流されて歪んでいた。遠くの建物の屋上で、誰かが洗濯物を干しているのが見えた。小さな人影。名前も知らない誰か。

ユキはもう一口、卵焼きを食べた。

「ルナ」

「はい」

「今日、ソウタさんのところに行くとき、ちょっと遠回りしてもいい?」

「効率的なルートは——」

「遠回りがいいの」

「……承知しました」

ユキは立ち上がり、皿を洗った。自分の手で。泡が指の間を滑る感覚。水の冷たさ。こんなことすら、新鮮だった。

ユキは引き出しを探った。ペンはあった。紙は——今朝、花屋でもらった包み紙の切れ端が残っていた。小さくて、花の匂いがかすかにして、書きにくい。

でも、書いた。

「朝ごはんです。バターは自分で塗りました」

字が下手だった。曲がっていて、大きさがバラバラで、ソウタの字にどこか似ていた。

パンと一緒にメモを配送ボックスに入れる。宛先も、包み紙の隅にソウタの住所を書いた。ロボットが手書きの文字を読み取り、配送先を認識する。

ラベルに、あの表示が出た。

「ERROR——手動入力(非デジタル文字認識)」

ユキは笑った。

エラー。不正規。非効率。不完全。

でもそれは、人間が自分の手を動かした証だ。

コートを着る。ドアを開ける。廊下の空気が頬に触れる。

今日も、世界は完璧に動いている。配送ロボットは正確に走り、HARMONIAは都市を管理し、すべてが最適化されている。

でも、その完璧な世界の片隅で——

少し焦げたパンを載せた配送ロボットが、古い住宅街に向かって走っている。

不完全な贈り物を、不完全な人に届けるために。

ユキは歩き出す。少しだけ遠回りの道を、少しだけ速い足取りで。

空は今日も、完璧に青かった。

でも雲の形は——少しだけ、花束に似ていた。